清泉寮の成り立ち 〜基本理念は『祈りと奉仕』〜

沿革
清泉寮は、1938(昭和13)年、キリスト教の一派聖公会の青年運動団体である聖徒アンデレ同胞会(BSA=Brotherhood of St.Andrew)創始者ジェームズ・L・ホーテリング氏を記念し、日本聖徒アンデレ同胞会指導者訓練キャンプ場として奉献されました。
以来、清泉寮は大自然の中での青年指導者の養成のための修養会、自然学級の使命を果たしてきましたが、1941(昭和16)年太平洋戦争による国際情勢の悪化から、キャンプは中止、清泉寮は封鎖をやむなきにいたりました。
1945(昭和20)年第二次世界大戦の終結と同時にポール・ラッシュ博士がGHQ将校として再来日。博士の献身的な努力により、荒廃していた清泉寮が再建され、以来、清里農村センターの拠点施設として多くの来訪者を迎えてきましたが、1955(昭和30)年11月、清泉寮が焼失。貴重な資料も共に失いました。
-
1957(昭和32)年、清泉寮が再建。落成奉献式には、高松宮両殿下をお迎えしました。これが現在の清泉寮本館となっています。木のぬくもりが感じられる建物は、学校や企業の研修施設として、また個人のお客さまにも愛されている施設です。
-
清泉寮新館は、2009(平成21)年に歴史を積み重ねてきた清泉寮「本館」のイメージを継承した宿泊研修棟として建設され、多くのお客さまにご利用いただいています。
ロケーション
-
清泉寮は富士山の見える場所に建っています。
日本聖徒アンデレ同胞会の清泉寮キャンプ場を建設しようと、候補地を探していたポール・ラッシュ博士が、条件として考えていたのは、日本の象徴である富士山が見える場所でなければならないということでした。
甲府の談露館の主人である中沢氏の紹介で清里を訪れ、南に富士山、東は秩父連山、西は南アルプス連峰、北に八ヶ岳といった景勝の地であることから、大変気に入り、この地を選びました。
清泉寮本館の正面玄関にある博士の銅像は、博士の愛した富士山の方向を向いて建っています。
清泉寮の名前の由来
1938(昭和13)年に完成した清泉寮キャンプ場の名前は、聖書の聖句からつける、周囲の山の名前にする等いろいろな提案がありました。
その命名を依頼された、当時の立教大学チャペル不司祭がであった高松司祭が、清泉寮キャンプ場のある敷地が当時の清里村と大泉村にまたがっていることから、両方の地名の頭文字から一文字ずつとって「清泉寮」としてはどうかと提案。
一文字ずつとっただけではと不満げだった博士は、その英語訳が「ピュア=スプリング」(清らかな泉がわき出る清泉寮キャンプ場)であることを聞くと、大いに喜んでその命名に賛成したと言われています。
ポール・ラッシュ博士 〜キープ協会の創設者〜

理念
清泉寮を運営するキープ協会の創設者であるポール・ラッシュ博士は「己のように隣人を愛しなさい」という聖書の言葉に従い、非凡な行動力で、戦後日本の民主的復興に多大な貢献を果たし、身近な理想家として多くの人々の胸に刻み込まれております。
生涯
-
博士はケンタッキー州出身で、関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCAを再建するため1925年(大正14)年に米国の国際YMCAから派遣され、初来日しました。その後、キリスト教日本聖公会の主教の依頼により、ミッションスクールであった立教大学で、日米開戦で強制送還されるまで教鞭を取っていました。
この間、東京の聖路加国際病院建設の募金活動、日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)の設立など多くの社会事業に尽力し、その青少年訓練清泉寮キャンプ場として1938(昭和13)年、山梨県八ヶ岳山麓の清里に清泉寮を建設しました。
また日本のアメリカンフットボールは、1934(昭和9)年ポール・ラッシュ博士により組織化され、後に、日本アメリカンフットボール協会は「日本アメフトの父」の称号を捧げ、現在も日本一決定戦ライスボウルにおいてMVPにポール・ラッシュ杯を授与して、博士の栄誉をたたえています。
日米開戦により強制送還された博士は、ただちに米国陸軍日本語学校に志願し日系2世兵の指導に当たるとともに、米国各地の教会で、戦争後の日本救済への支援協力を訴えて、講演活動を行いました。そして終戦と同時に、GHQ将校として東京に戻り、マッカーサー元帥の理解を得ながら、戦禍で疲弊した日本社会の再建活動に取り組んだのです。 -
博士の日本復興支援は清里にとどまらず、戦時中軍部に弾圧された立教大学や日本聖公会、アメリカンフットボールの復興、聖路加国際病院などにも多大な尽力をしました。
また、神奈川県大磯で混血孤児の親代わりとなって養育した澤田美喜さんの「エリザベスサンダースホーム」の創立・運営を支援し、孤児たちのゴッドファーザー(洗礼親)を引き受けました。
亡くなる直前、英国からカンタベリー大主教が、清里で病床にあったラッシュ博士をお見舞いされ、人類への奉仕と神の栄光を地上に顕したことに感謝の言葉を伝えたのです。彼の最後のそして最大の栄誉となりました。1979(昭和54)年、聖路加国際病院で82年の生涯を閉じました。
キープ協会の働きを通じて、日米の民間交流の手本を示し、亡くなるまで日本を愛し続けたポール・ラッシュ博士。その最期に身の回りの財産は、聖書と万年筆、何着かのスーツ、そしてパジャマと歯ブラシだけ。家庭も貯蓄も持たず、一生を日本への無償の愛のために捧げたのでした。博士の遺骨は清里聖アンデレ教会納骨堂に安置されております。
博士の哲学
“Do your best
and it must be first class”
〜最善を尽くせ、そして一流であれ〜
-
ポール・ラッシュ博士は、27歳で来日してから、82歳で亡くなるまで、生涯をかけて日本の社会事業に身を捧げました。
“Do your best and it must be first class”は、博士が無償の奉仕で社会事業に取り組んだ際の心構えであり、また日本の若者に残した教えの言葉として有名です。
もともとこの言葉は、博士が戦前、東京築地・聖路加国際病院建設のために全米で募金活動に従事していたときに、同病院長院長のルドルフ・B・トイスラー博士から伝授されました。
「ラッシュ君、もし君が主イエスの名において事業に取り組むのであれば、君は最善を尽くさなければならない。しかも、それは人々が目標とし、まねができるよう、本物の、一流の仕事でなければならない。」
この言葉は「人が一生において取り組むべき事業は、金や栄誉のためだけではもしいものになってしまう。正義のために、そして他の人々の向上のためになるよう、最善をつくしなさい」という意味で、トイスラー博士は若きポールへの励ましとして授けられました。以来、博士は、この言葉を胸に刻み、最善を尽くして日本の高冷地開拓に取り組み、人々に希望を与え、日米の友好に尽くしたのです。そして、晩年には次代を担う若者へのメッセージとして伝えました。 -